25日の例会に駆け付けてくださった
(『紀伊国かせだ荘』も購入)岸本さんが
ブログにて、書評会の活字化を提案して
くださっている。2004年大湯屋発見以来の
研究成果(考古・建築・荘園遺跡)を何とか
世に出しておきたい、という一心で科研ほか
助成金を獲り、保存管理計画の策定をにらんで
緊急出版した『中世都市根来寺と紀州惣国』
だった。すでに、一乗閣移転地の造成工事は
終了し、争点は大湯屋や大門池図書館の活用
計画に広がる。1585年根来寺とは何か、
について、私の惣国首都を厳しく批判いただき、
積極的な提案をいただけるのは望外の喜びである。
根来本合評会にご参集くださった皆様
まことにありがとうございました。
異例の午前中からの例会は50席満席。
報告者・司会者の方々には、丁寧な
ご検討をいただき、厳しい批判に感謝。
「惣国」「首都」「倭寇」さらに研鑚を
重ねて、中世的支配について問い続けます。
★
聖教奥書の大永2根来惣国百姓徳政について、
http://wakayamau.blog116.fc2.com/blog-entry-219.html
九条家文書の入山田郷人徳政(圖書寮刊本
216号=本書p220所引)の傍線部は、
「郷人が徳政を訴えたので、村の宿老が
根来寺に行って調停して、無事に服した」
と解釈して、別の事件である(から、惣国
百姓に和泉国が含まれているとは実証でき
ない)としていた。(仁木さんの指摘)
寺家の宿老という決定機関の役割を強調
した私の思い込みを糺されたものだった。
寺家(根来寺)と年寄層の間の調停によって
「郷人徳政の儀」が解決した、と解釈した
場合にも、「郷人徳政の儀」の実態が
聖教奥書の「惣国ノ百姓」根来寺襲撃で
あったと考えることはできるだろう。
ふたつの質の異なる文書の描いた事件の
関係を、改めて深く考えたい。
懇親会において、この解釈は報告者が
意見交換しつつ集団検討してくれたもの
と聞いた。フロアからの志賀節子さんの
ご指摘も含め、ご検討に感謝したい。
★
3人で帰国の車中にて。鳴海さんが
「本当に丁寧に読み込んで検討してくれて」
と感慨深く語っていました。まことに。
「4時間にわたる公開処刑」などと冗句にも
発言した不明を深く反省しています。
阿部さんに指摘された通り、根来惣国
見取り図作りをはじめようと思います。
引き続きのご教示をよろしくお願いします。
25日(土)10時半から大阪駅前第2ビル4階の
大学コンソーシアムにて。
同成社『中世都市根来寺と紀州惣国』批判会。
これから、根来をどうするのか?
多くの識者のパブリックコメントをいただくつもりで、
長丁場のご批判にこたえさせていただきます。
参加者には根来フィールドミュージアム地図を
もれなく差し上げます。また、
本書刊行の意義のひとつ、係争地だった根来要害(3章)
「全面発掘」成果について、レジュメとパワーポイントで
わかりやすくご報告いたします。ぜひご参集ください。
さらに、同成社の御好意で、根来本6100円、笠田本
5500円の×0.8強の特価にて販売しますのでお早めに。
詳報 バックナンバーご参照
http://wakayamau.blog116.fc2.com/blog-entry-592.html
最近、「回顧と展望 補遺」という論文を見て
よくやるなあ、と笑ったものだが。(王朝
国家は古代か中世か、という話)。
史学雑誌の短文紹介号に歴研の総力企画出版
が回ってきた。字数制限がきつくて、ここを
除るか原発問題を除るか、という究極選択で
カットした部分。
「Ⅳ 史資料ネットワークによる取り組み」は、宮城・福島・茨城の各県と長野県栄村の史料保存のノウハウについて4人の報告を載せる。宮城ネットのように「万全の備え」があるように見えてもなお足りずに「対症療法」の連続になるという(平川論文)。また、奥村論文によると、肝心の専門職は自治体財政悪化による人員削減のあおりで、ボランティアへの依存が高まるという実情である。当県のように県立文書館がありながら専門職は史料所蔵者の守秘義務!のため情報発信できないし基地にもならないというケースもある。列島開発期に実施された記録調査のための考古技師中心の専門職体制を見直す(リセットの)ときに来ているものと思われる。
以上、本書は災害列島時代の歴史研究者の矜持を考えさせてくれた。いまにも南海大地震の襲う地に勤務する私には、いずれもが導きの糸となる警告の書だった。紹介できなかった論文にも多くを学んだ。ぜひ書店で手にとって、「刊行の辞」の丁寧な論文解説をご覧いただきたい。蛇足ながら、本書の中で私がもっとも感心したのは、Ⅰでも触れた資料編所収の石井正敏「貞観十一年の震災と外寇」であった。勤務校の防災研究センターの理系研究者たちが歴史学に求めているのはまさしくこのような仕事だと思い当たった。分りやすい現代語訳を作り、災害規模や社会的影響について簡潔な解説を付すこと、これこそ文献史学が周辺諸科学に対して果たせる役割の第一歩だろう。大部の史料集や古代中世地震史料研究会のデータベースなど貴重な仕事があるが、いかんせん史料の少ない時代に限定されて、他分野にもわかりやすい語釈作りとなると取り組みは遅れがちである。その点、災害と外寇(異国征伐)というひろやかな視野で史料収集をおこなって災害の社会史を問うている石井の作業は、ひとつのお手本になることだろう。貞観地震とは比較にならない確度で発生するはずの南海大地震について、何よりもこの作業を急ぐべきであると考えた次第である。(海津一朗 和歌山大学教育学部教授)
回答出るまでトップに置きつづけよう
8月19日の検討会の成果を踏まえて出ました(10月5日付)。
図面類はヒストリアの234号をご参照
和歌山県教育長西下博通様
大阪歴史学会 代表委員今井修平
根来寺遺跡一乗閣移転予定地の
保存を求める要望書
一乗閣移転予定地の保存を求める2012年2月10日付の本会の再要望書について、ご回答がいただけませんでした。2011年7月12日付の最初の要望書に対する回答と同じである場合も含め、個々の要望点に対する、和歌山県の考え方や方針をお聞きしたかったのですが、誠意のない姿勢に落胆いたしました。
最初の要望書に対する貴教育委員会からの平成23年7月29日付の回答では、遺跡の性格や評価に対する見解は表明されず、調査委託先の作成する報告書で示すとのことでした。そこで、ようやく刊行された報告書にもとづき、調査内容を点検したところ、疑問を抱かざるを得ない所見があり、全体としての遺跡の性格判断についても、城郭的性格をもつとみる本会の見解を訂正する必要はなく、またそうした遺跡評価のためのポイントとなる部位が未解明で、調査が十分でないことを確信いたしました。
そこで、別紙のような質問書を添え、あわせて再々度の要望書を提出いたします。2012年11月中頃を目途に質問点を含めて、ご回答いただきますようお願いします。
記
(1)丘陵頂部には遺構が残存しており、記録保存の調査として不完全であり、全面調査を改めて実施すること。
(2)城郭的遺構とみる本会の指摘に対する和歌山県教育委員会の見解、および城郭的遺構でないとする和歌山県教育委員会の判断について、公式に表明すること。
(3)この調査区の取り扱いそのものは、和歌山県文化財保護審議会での審議を経て、和歌山県教育委員会が決定すること。
(4)一乗閣については、明治期の県会議事堂として貴重なものであり、その歴史的意義を示しうる本来の場所において活用を図ること。
(5)史跡根来寺境内保存管理計画策定委委員会でも、蓮華谷川以西についても史跡指定の範囲として検討対象に含める意見が強いようであり、同委員会において、蓮華谷川西側の尾根の取り扱いについて十分な審議をおこなうこと。
報告書に関する質問
1.発掘調査地点の評価の前に
(1)1958 年の空中写真および1980 年の地形図に土塁状の高まりや空堀状の凹部をどう考えますか。
(2) 調査区の南の丘陵尾根上に、土塁状の高まりや段差、櫓台状の高まりが指摘されていますが(白石博則「城館遺構からみた「根来寺西方丘陵遺跡―要害の可能性をさぐる」『和歌山城郭研究』第1 号,2012 年4 月)、こうした隣接地の人為的改変をどう考えますか。
(3)本調査区を評価する上で隣接地の所見も参考にすべきと考えますが、どう考えますか。
(4) 根来寺最盛期には、丘陵上にも子院遺構が造られるとのことですが、周囲と10 ~ 20 mの高低差のある本調査区と比較しうるような調査地点があれば、ご教示下さい。
(5) 北接する大規模農道にともなう調査区の子院と丘陵頂部の立面的な関係について、標高データを含めて、どのように考えているのか、ご教示下さい。
2.丘陵頂部の遺構と確認調査について
(1) A トレンチ東端の地山の高まりは、1980 年地形図とよく対応しており、土塁の可能性を考えて追求が必要と考えますが、どう考えますか。
(2) 同じく東端で見つかった石材は、図版キャプションにあるように「岩盤」なのか、本文にあるように遺構に用いられた砂岩礫なのか、どちらですか。この堆積状況を見ると、石材は原位置近くで崩落しているようにも見え、すべてが遊離したものといえるのか疑念があります。土塁状の高まり、ないし建物にともなう石垣材として、その由来を追求する必要はありませんか。
(3) 丘陵頂部の地山の高低差は1980 年地形図からも読み取れ、報告書でも「子院間に設けられた段差」と理解されていますが、こうした段差の「名残り」も遺構と考えますが、調査は不要ですか。
(4) B トレンチの屈曲部は、層位図から深さ1 mに近い窪みをなしておりますが、これが現代の攪乱といえる根拠となる2・4・7・8 各層出土の現代遺物を、ご教示下さい。
(5) 1958 年空中写真に見える空堀状の凹部は開発予定区域内になりますが、追求は必要ないでしょうか。
3.丘陵西側の遺構について
(1) 丘陵西縁には遺構があり、パイロット事業による舗装された農道下からも検出されており、調査区を限定する理由が理解できません。鯱瓦を葺いた瓦葺建物も想定されており、西縁部の追求が甘いと考えますが、どのようにお考えですか。
(2) 階段を上がってすぐ屈曲して始まり、斜面途中の狭い犬走り通路を谷側まで伸ばすあり方は、根来寺においてやはり特殊なものと思われます。丘陵頂部の子院の敷地を最大限確保するとすれば、こうした通路にせず、階段を上に伸ばせば済むことです。この通路のあり方が、一般的とするなら類例をご教示いただきたく、あまり類例がないとすれば、丘陵頂部への導線をどうしていたのかを含め、考えるところをご教示下さい。
(3) 集水口を石垣から離して設置し石垣内部を通して排水することや、「上からの流入溝」に石蓋をして伸ばすことは、斜面途中の通路東側の段差部に、いまは残っていない盛土による土塁等の遮蔽物を想定することで合理的な解釈が可能になりますが、どう考えますか。
(4) 井戸と溝6 の西側に残る土壇は、東側に地山の高まりがあり、西側の堆積土からなりますが、なぜ堆積土をすべて除去しないのか、理由を教えてください。
(5)( 4)の地山の高まりは、その延長部分の調査区の壁面に残る地山の高まりに対応することは明らかであり、偶然に両側が攪乱を受けて地山が削り残されたとみることはできず、土塁の可能性が高く、その確認が必要であると思いますが、どう考えますか。
遺跡の評価と調査の問題点
遺跡の性格 本調査区の実施された西縁において、通路の東側に盛土による土塁が想定され、また井戸と溝6 の地点では明らかな地山削り出しによる土塁があり、また丘陵頂部東縁にも、空中写真や地形図と一致する地山の高まりが確認調査でも検出され石材も出土していること、さらに開発区域南端部に空堀状の凹部が存在したことは明らかであり、全体として丘陵頂部に土塁をめぐらした空間が復元できます。また北側の広域農道に先立つ調査で明らかとなった子院との間には、部位によって差はあるが高低差があり、子院群に対して丘陵頂部は独立的であると考えられます。発掘調査範囲のなかで頂部への入口は確認されておらず、西側斜面に沿って細長い通路を北に伸ばすあり方も、単に土地がなく丘陵頂部も子院として利用せざるをえなかったとの説明では合理的な解釈は困難です。
発掘調査報告書では、最終的には一般的な子院と位置づけ、かつ削平されて遺構は残存しないとの判断に立っていますが、防御を意識した城郭的性格をもつとの考えを改める必要はないと思われます。
遺構の追求の甘さ 確認調査で明らかとなった段差の「名残り」は、丘陵頂部における区画割りを示しており明らかな遺構ですが、発掘調査が行われていません。東縁の地山の高まりは、空中写真や地形図に残る土塁状の高まりと一致するので、確認調査の部位のみならず追求が必要です。砂岩礫についても堆積状況等に関する詳しい記述はなく、これが削平にともない遊離し縁部に押しやられたものと簡単に判断することは危険でしょう。空中写真に見える開発区域南端部の折れをもつ空堀状の凹部は、掘り窪められたものであるので調査で確認が可能と考えられ、発掘により性格を明らかする必要があります。
確認調査の不備 以上のように、最終的な遺跡の評価以前に、発掘調査の範囲が部分的であることがすべての元凶となっています。今回の確認調査は、かつての空中写真や地形図等に現れる人為的痕跡や、南側の現存する改変の痕跡に注意を払うことなく、また確認調査の際のA・Bトレンチの高低差にも配慮す
ることなく、本調査区を限定したように見えます。遺存状況が仮によくないと判断するにせよ、全体を調査しておく慎重な態度が必要であったと思います。また、調査途中で全面調査に切り替えるべきでした。
全面調査が必要 調査地点とくに頂部の評価については、子院とみる和歌山県の見解と、城郭的遺構とみるわれわれとの間に埋めがたい相違があります。しかし、遺構の解釈、全体としての遺跡の評価の前に、全面調査が必要であることは明らかです。これでは記録保存の調査としてまったく不完全です。丘陵頂部には遺構と考えざるをえない段差のほか、東西縁辺の土塁状遺構の追求は不可欠です。それでも全面調査を実施せず一乗閣移転に進むならば、和歌山県教育委員会には文化財保護行政にあたる資格はないと考えざるをえません。文化財保護行政の権限者として、自らが事業者でもある一乗閣移転事業に際し、まずは不備を指摘されることがないよう十分に慎重な調査を実施すべきです。
遺跡の評価については、上記したような見解に立っており、全面調査によりその裏付けがえられることを期待しますが、いずれにしても全面調査の結果をふまえなければなりません。繰り返しますが、遺跡の評価に対する見解の相違以前に、まずは限定せずに調査を実施すること、遺構の可能性がある部位について追求すること、瓦葺建物や石垣が東側にもあったことなども十分頭に入れ、遺跡からできるだけの情報を汲み取る姿勢で調査に望むことを希望する次第です。
(図1略)
丘陵頂部についての疑問
・丘陵頂部の地山の高低差は1980 年地形図からも読み取れ、「子院間に設けられた段差」と理解するように遺構である。・B トレンチ屈曲部は、層位図からは深さ1 m近い窪みをなし、遺構である蓋然性が高いと思われる。
・A トレンチ東端の地山の高まりは、1980 年地形図によく示されており、土塁と思われる。・同じく東端で見つかった石材を用いた遺構は「岩盤」とは思われない。・1958 年空中写真では空堀状の窪みがあり(1980 年地形図にも地割表現)、遺構である可能性がある。
(図23略)
丘陵頂部についての疑問
・現実に丘陵西縁には遺構があり、パイロット事業による舗装された農道下から検出されており、調査区を限定する理由は。・次頁の土塁と見るべき地山の高まりの解釈は。・階段を上がってすぐ屈曲して始まり、斜面途中の狭い犬走り通路を谷側まで伸ばすのことの解釈は。・集水口を石垣から離して設置し、また「上からの流入溝」に石蓋をして伸ばすことの理由は。・この遺構群を全体としてのどのような構造に復元するのか。・谷部の子院をあわせ立体的にどう捉えるのか。
(図45略)
図面がないと分かりにくいだろうが、
ヒストリア234号(2012・10月)に詳細な解説
入りで掲示されている。考古学研究にも論文が
出るに違いない。
要望を無視されている日考協はどのように
でてくるか。
なお、情報公開申請で出回った議事録をみると
岩出市の保存管理計画委員会では、京奈和道と
インターが問題になっているらしい。15年前に
国庫補助の荘園遺跡調査をして京奈和対策を
組んだとき、岩出市・根来寺はいったい何を
していたのだろうか。
別に先見の明を誇るつもりはないが。
http://wakayamau.blog116.fc2.com/blog-entry-330.html
けだし、県文化遺産課の変貌ぶりを見るのには
よい事例かもしれない。