根来寺報告書批判3 伽藍古絵図はどう読んだ?
発掘地点について「根来寺伽藍古絵図」をどのように
読図したのか、それにもとづいて調査上いかなる工夫
と配慮がなされたか?具体的に回答されたい。
研究史上、中世の最盛期の根来寺を学侶方を中心に
して回顧して描いたとされる「伽藍古絵図」について。
まったく通り一遍の数行の記述しかないのだが、
現地同定をすればあきらかなように、東西の坂本口
につぐ第三の寺の門「西下乗口」の突き当たりに
該当する独立峯なのである。(さらに言えば第4の
「北泉州桃坂口」からの道の西支線も併行する)。
ふつうの研究者なら、坂本につぐ第3の口がどの
ような意味と役割をもつかを考察するに違いない。
その大道を遮って正面している発掘地点こそ、
その謎を解き明かすための要地と考えて当然では
ないのか。
「何も残ってない単なる子院」群という結論は
正しいとするならそれ自体が非常に興味深く、
この門と大道の意義を示すものに違いないが、
そんなことは考察ではどこにも触れられていない。
驚くべき鈍感である。無能か故意かは不明だ。
*なお、文献史学が年頭以来はなばなしく論争して
いる「根来寺之法度」の発動された戦場「西ノ山」。
中世の合戦は、集団間で均衡を確保するまで
復讐の応酬をするという自力救済の慣行で、
この時は蓮華谷(訴人)・西谷(論人)の境界相論
であった。両者は合戦の日を決めて果し合いの場に
集結。常識的には両方の境界の地、論所が山だから
その付近に集合したのであろう。現在の発掘地点は、
実はこの条件にピタリと符合するところである。
慎重な私は断定しないが、気の早い文献史家なら
防御的な機能をもつ発掘地点をこの「西ノ山」に
地域比定するのではないか。たしかにその可能性は
かなりに高いと思われる。
伽藍古絵図を読み、佐武伊賀を読み直し、
あらためて蓮華谷と西谷の「西ノ山」を想定
しながら真理を突き止めていってほしぃ。
もちろん考古学的な手続きが前提なのだが*。
*考古学的な判断能力がないために文献史料など
に凭れ掛かってくる人を当県に来てを嫌という程
見てきたので念のため。
読図したのか、それにもとづいて調査上いかなる工夫
と配慮がなされたか?具体的に回答されたい。
研究史上、中世の最盛期の根来寺を学侶方を中心に
して回顧して描いたとされる「伽藍古絵図」について。
まったく通り一遍の数行の記述しかないのだが、
現地同定をすればあきらかなように、東西の坂本口
につぐ第三の寺の門「西下乗口」の突き当たりに
該当する独立峯なのである。(さらに言えば第4の
「北泉州桃坂口」からの道の西支線も併行する)。
ふつうの研究者なら、坂本につぐ第3の口がどの
ような意味と役割をもつかを考察するに違いない。
その大道を遮って正面している発掘地点こそ、
その謎を解き明かすための要地と考えて当然では
ないのか。
「何も残ってない単なる子院」群という結論は
正しいとするならそれ自体が非常に興味深く、
この門と大道の意義を示すものに違いないが、
そんなことは考察ではどこにも触れられていない。
驚くべき鈍感である。無能か故意かは不明だ。
*なお、文献史学が年頭以来はなばなしく論争して
いる「根来寺之法度」の発動された戦場「西ノ山」。
中世の合戦は、集団間で均衡を確保するまで
復讐の応酬をするという自力救済の慣行で、
この時は蓮華谷(訴人)・西谷(論人)の境界相論
であった。両者は合戦の日を決めて果し合いの場に
集結。常識的には両方の境界の地、論所が山だから
その付近に集合したのであろう。現在の発掘地点は、
実はこの条件にピタリと符合するところである。
慎重な私は断定しないが、気の早い文献史家なら
防御的な機能をもつ発掘地点をこの「西ノ山」に
地域比定するのではないか。たしかにその可能性は
かなりに高いと思われる。
伽藍古絵図を読み、佐武伊賀を読み直し、
あらためて蓮華谷と西谷の「西ノ山」を想定
しながら真理を突き止めていってほしぃ。
もちろん考古学的な手続きが前提なのだが*。
*考古学的な判断能力がないために文献史料など
に凭れ掛かってくる人を当県に来てを嫌という程
見てきたので念のため。
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