批判に答える ヒストリア233・坂本亮太書評
絶対名前出さないでくださいよ、と念押しして
取材協力した歴史秘話ヒストリア。根来案内
から帰ってきたらヒストリアの最新号が来てた。
(10月10日NHK放送にご注目。カテゴリ
「根来寺問題」にしたほうがよかったかも)
県博学芸員の坂本亮太氏による『紀伊国かせ田荘』
批判。同氏は、私が県・文化財センターの南部荘
遺跡指導委員会の委員をしたときに、荘園調査を
主導した責任者で、「大井用水」の開削主体・時期
から検注主体(坂本氏は地頭三浦検注説!)まで、
ことごとく私と意見が対立して、困り果てた私が
異例の成果報告書(両説併記総括)を刊行した
という愉快な経験がある(『中世再現 1240年の
荘園景観ー南部荘に生きた人びと』中和印刷、
和歌山県立博物館のMUSEUM・SHOPにて販売中)。
このときの体験なしには、『紀伊国KASEDA荘』
は到底編めなかったであろうと感謝(補注)。
そんな坂本氏から、編者海津に対して、
「本書での論争を細かく紐解いていくと、各学問
分野の方法論の限界(守備範囲、立ち位置)と
可能性を見つめ直す良いきっかけにもなろう。
本書で統一的な見解が示されていない点は、
読者にとっては極めて不親切ではあるが、上記
のような読み方をすれば、非常に魅惑的な書とも
なろう」と、我が意を得たエール?をいただいた。
「荘園絵図論争への言及が無い」「窪萩原遺跡
というわりに島・河川敷開発論文が無い」「我等
環境歴史学の視座がまるでない」など(此岸能力)
ないものねだりの数々のご批判を、自己の課題だ
などと皮肉をこめてご指摘(坂本氏は、文覚・
神護寺文書展を企画しているとの風聞どおり、
行間に厳しい批判をこめた検討を)してくれて
実にありがたい。島論文については、高木サマー
ーセミナー報告(現在も未発表?)を是非入れた
かったが、現在の景観保存問題の焦点が京名和
高速道の当たる山側だったため、文覚井など
穴伏川流域水利システムの方を重視した。確かに
おまえの10章なら前田島論文収録すべきだ、
というご批判は甘受したい。
文覚井の成立時期についても、1185年一の井
のみ成立説(林)、二の井のみ成立説(前田)、
両方成立説(海津)として、わかりやすい図式に
して、坂本説を対置している(当然両方あって
一の井は神護寺、二の井は在地領主という解読。
この坂本論法でいくなら三の井は御正作集中で
神護寺拠点開発に?)。争点をわかりやすく摘出
してバッサリ批判というのも才能だと思って
感嘆した。ただ、海津・林が強調したのはむしろ
那賀郡側の穴伏川用水路の開発のほうであり、
そこが研究史のもう点だったという指摘だった
(穴伏川水系灌漑水利システムのなかの文覚井
と言ってるのはそのためである、原でも元でも
良いのだが)。前田氏も含めて、われら3人共
二の井を従来(木村茂光説や黒田日出男説)の
ように穴伏川水田の用水とは考えておらず、
窪地区用水と考えて立論している。聞取調査
「トコミズサンゴウ」発見以前と以後に研究史は
大きく二分されるのである。従来のVIP
たちとは根本が違うのだ、というあたりを今
少し強調していただきたかった。一応グラビア
図2に穴伏川流域用水群概念図(カラー)や
p114に文覚井(一・二・三ノ井)概念図
を大きく出して、目立たせたつもりなのだが。
海津・林は1185年文覚井(一二三)はあって
当然で、静川地区の主要耕地は那賀郡側でその
右岸側水路群(原型)もすでにあるのだ、
(近世に至り縮小)と強調していたのである。
林論文が「二の井は未成立」、と論じた事の
意味について、註20(150頁)にわざわざ
詳しく註記してる点をご留意いただきたい。
(窪地区を文書欠損と見る林氏からは二の井の
有無は論じられない、という立場。この註記
自体が、前田説批判である事がいうまでもない)
あと、文覚伝説も灌漑設備もきのくに荘園
ではなくて神護寺領全体の広い視野で見ろ!
などなどの積極提言、氏の結論は「自己の課題」
として書いてくれてないが、「紀伊国KASEDA」
のために是非、最終報告書に原稿くれないか?
ついでに流出神護寺領文書一覧表も。この夏は、
根来惣国、阿テ河、西岡虎之助、石上露子、
近木川(中世日本国境)に忙殺されていて、
科研報告書のことをすっかり忘れていた…。
サマーセミナー参加者の皆様
ここにきて俄然注目されているKASEDA荘の
地にお越しください。セミナー会場には重いが
数冊から持ってきます(私の持分ですのでどうぞ
みつけて押買狼藉をお願いします)。さらに
和歌山県立博物館の方々へ、
坂本説が出揃ったところで、常設展示・HP
のKASEDA部分の全面的なリメイクをお願い
したいと思いますがいかがか。とりあえず
坂本説なら(失礼)、全国の中世史研究者も
納得するかと思うのですが。文化財保存行政
の上でも前向きな位置になる。坂本君、三の井
忘れないで。
(補注)
条里に水路に高田土居の論争なので、普通ならば
2桁違いの発掘調査で片が付いたはずだった。
それがここでは解決しなかった。2002報告書の
『中世再現』には、意味のあるデータとしては、
武内雅人氏執筆の試掘確認調査のみしか収録
できなかった。P138~5の図32・33・34
発掘地区一覧はクレジット海津の作図になっている。
文化財センターは自ら南部荘遺跡の全体像を
理解しておらず、やむなく私が代行作成したのだった。
根来寺問題の原型がすでに垣間見られている。
170地点におよぶ根来寺遺跡の一覧を作ったのは
高木徳郎氏の『中世根来の社会史』所収地図・表
が初めてであった。
取材協力した歴史秘話ヒストリア。根来案内
から帰ってきたらヒストリアの最新号が来てた。
(10月10日NHK放送にご注目。カテゴリ
「根来寺問題」にしたほうがよかったかも)
県博学芸員の坂本亮太氏による『紀伊国かせ田荘』
批判。同氏は、私が県・文化財センターの南部荘
遺跡指導委員会の委員をしたときに、荘園調査を
主導した責任者で、「大井用水」の開削主体・時期
から検注主体(坂本氏は地頭三浦検注説!)まで、
ことごとく私と意見が対立して、困り果てた私が
異例の成果報告書(両説併記総括)を刊行した
という愉快な経験がある(『中世再現 1240年の
荘園景観ー南部荘に生きた人びと』中和印刷、
和歌山県立博物館のMUSEUM・SHOPにて販売中)。
このときの体験なしには、『紀伊国KASEDA荘』
は到底編めなかったであろうと感謝(補注)。
そんな坂本氏から、編者海津に対して、
「本書での論争を細かく紐解いていくと、各学問
分野の方法論の限界(守備範囲、立ち位置)と
可能性を見つめ直す良いきっかけにもなろう。
本書で統一的な見解が示されていない点は、
読者にとっては極めて不親切ではあるが、上記
のような読み方をすれば、非常に魅惑的な書とも
なろう」と、我が意を得たエール?をいただいた。
「荘園絵図論争への言及が無い」「窪萩原遺跡
というわりに島・河川敷開発論文が無い」「我等
環境歴史学の視座がまるでない」など(此岸能力)
ないものねだりの数々のご批判を、自己の課題だ
などと皮肉をこめてご指摘(坂本氏は、文覚・
神護寺文書展を企画しているとの風聞どおり、
行間に厳しい批判をこめた検討を)してくれて
実にありがたい。島論文については、高木サマー
ーセミナー報告(現在も未発表?)を是非入れた
かったが、現在の景観保存問題の焦点が京名和
高速道の当たる山側だったため、文覚井など
穴伏川流域水利システムの方を重視した。確かに
おまえの10章なら前田島論文収録すべきだ、
というご批判は甘受したい。
文覚井の成立時期についても、1185年一の井
のみ成立説(林)、二の井のみ成立説(前田)、
両方成立説(海津)として、わかりやすい図式に
して、坂本説を対置している(当然両方あって
一の井は神護寺、二の井は在地領主という解読。
この坂本論法でいくなら三の井は御正作集中で
神護寺拠点開発に?)。争点をわかりやすく摘出
してバッサリ批判というのも才能だと思って
感嘆した。ただ、海津・林が強調したのはむしろ
那賀郡側の穴伏川用水路の開発のほうであり、
そこが研究史のもう点だったという指摘だった
(穴伏川水系灌漑水利システムのなかの文覚井
と言ってるのはそのためである、原でも元でも
良いのだが)。前田氏も含めて、われら3人共
二の井を従来(木村茂光説や黒田日出男説)の
ように穴伏川水田の用水とは考えておらず、
窪地区用水と考えて立論している。聞取調査
「トコミズサンゴウ」発見以前と以後に研究史は
大きく二分されるのである。従来のVIP
たちとは根本が違うのだ、というあたりを今
少し強調していただきたかった。一応グラビア
図2に穴伏川流域用水群概念図(カラー)や
p114に文覚井(一・二・三ノ井)概念図
を大きく出して、目立たせたつもりなのだが。
海津・林は1185年文覚井(一二三)はあって
当然で、静川地区の主要耕地は那賀郡側でその
右岸側水路群(原型)もすでにあるのだ、
(近世に至り縮小)と強調していたのである。
林論文が「二の井は未成立」、と論じた事の
意味について、註20(150頁)にわざわざ
詳しく註記してる点をご留意いただきたい。
(窪地区を文書欠損と見る林氏からは二の井の
有無は論じられない、という立場。この註記
自体が、前田説批判である事がいうまでもない)
あと、文覚伝説も灌漑設備もきのくに荘園
ではなくて神護寺領全体の広い視野で見ろ!
などなどの積極提言、氏の結論は「自己の課題」
として書いてくれてないが、「紀伊国KASEDA」
のために是非、最終報告書に原稿くれないか?
ついでに流出神護寺領文書一覧表も。この夏は、
根来惣国、阿テ河、西岡虎之助、石上露子、
近木川(中世日本国境)に忙殺されていて、
科研報告書のことをすっかり忘れていた…。
サマーセミナー参加者の皆様
ここにきて俄然注目されているKASEDA荘の
地にお越しください。セミナー会場には重いが
数冊から持ってきます(私の持分ですのでどうぞ
みつけて押買狼藉をお願いします)。さらに
和歌山県立博物館の方々へ、
坂本説が出揃ったところで、常設展示・HP
のKASEDA部分の全面的なリメイクをお願い
したいと思いますがいかがか。とりあえず
坂本説なら(失礼)、全国の中世史研究者も
納得するかと思うのですが。文化財保存行政
の上でも前向きな位置になる。坂本君、三の井
忘れないで。
(補注)
条里に水路に高田土居の論争なので、普通ならば
2桁違いの発掘調査で片が付いたはずだった。
それがここでは解決しなかった。2002報告書の
『中世再現』には、意味のあるデータとしては、
武内雅人氏執筆の試掘確認調査のみしか収録
できなかった。P138~5の図32・33・34
発掘地区一覧はクレジット海津の作図になっている。
文化財センターは自ら南部荘遺跡の全体像を
理解しておらず、やむなく私が代行作成したのだった。
根来寺問題の原型がすでに垣間見られている。
170地点におよぶ根来寺遺跡の一覧を作ったのは
高木徳郎氏の『中世根来の社会史』所収地図・表
が初めてであった。
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