佐藤和彦著『南北朝内乱史論』1979年
日本史研究の最新号(616号)「戦後歴史学の著作を
読み直す」PART3で、呉座勇一氏が書評してくれた。
「佐藤氏はありふれた領主制研究者から‘問題意識過剰
な‘民衆史研究者へと変貌を遂げたのである」(p23)
「領主制の諸段階」の図式理解(地頭⇒悪党⇒国人・
国人一揆)と、民衆運動論(農民闘争と国人一揆の
対抗関係)とが矛盾しつつも混在する佐藤内乱史論
を的確に整理したうえで、その画期を謎解きして
<矢野荘モデル=十三日講事件>を発見していく。
「佐藤の研究視角は、矢野荘に関する実証研究を
通じて育まれたものであり、鈴木良一と松本新八郎
の議論に感化されて生まれたものでは決してない。
実際、鎌倉末期~南北朝期の矢野荘に関する佐藤氏の
理解は、現在の研究段階から見ても大筋では間違って
おらず、当時の史料環境を考えると驚異的な精度である」
(p26)
同感の至りである。
それだけに、藤木久志氏が矢野荘で投げかけた
佐藤モデルへの全面批判に対して、悪党論・内乱論
研究者はもう少し真剣に取り組むべきではないかー
http://wakayamau.blog116.fc2.com/blog-entry-370.html
ということを悪党研究会主催の佐藤和彦氏追悼シンポ
で強く提案した。田村憲美氏がそれに応える報告を
寄せてくださり、ごく最近活字になった(岩田書院
『中世荘園の基層』)。これを手がかりとして議論を
深めることが、私の世代の『南北朝内乱史論』再生
になるように思う。
呉座氏の指摘には、室町期荘園制論への架け橋
としての<矢野荘モデル>の意義など、傾聴すべき
点が多々あった。
「中世民衆の行動様式や、その行動を規定する心性を
探る研究が多く見られたが、これらの淵源は佐藤氏の
研究に求めることができよう」(p19)
呉座氏は、人民闘争史から社会史へのボンドとして
佐藤氏の研究を評価している。冷静に考えるなら
その通りかもしれない。だがこの時期に自己形成
していた私は、違った。敢えて深い断絶を見出して、
「佐藤氏が百姓申状の中に中世民衆の闘いを発見した
のに対し、入間田氏は起請文の側に中世民衆を見た
歴史家だった」などと強調して、後者の社会史の中に
自分を位置付ける、というスタンスを採り続けていた。
(坂田聡氏はじめ同様の同志が多かった、と思う)
もうひとつ、国人一揆・惣国研究者としての呉座氏
は、
「<国人一揆=農民弾圧組織>説は一揆契状の解釈に
難があり、現在では成り立たないという評価が確定
している」(p20)
「冒険的な史料解釈」(p23)「実証面での弱点」
(p26)と退けている。佐藤氏自身もそのような発言を
したことがあるが、そうだろうか。高幡不動胎内文書
が発見された折、私は佐藤氏に強く求めて、『内乱史
研究』14号に「国人一揆再論を寄稿していただいた。
1993年のころだった。(のち同氏著『中世社会思想史
の試み』校倉2000年再録)。その編集後記には、
「精緻な実証と理論との緊張関係によって、20年以前に
人返し機能を本質とする東国国人一揆の実在を予言して
いた佐藤氏。木村・佐藤論文を乞うたのは、課題への
思い入れと方法的模索の大切さを会員とわかちあいたい
ためである」と書いた。史的唯物論の「勝利」を確信
し、過剰な問題意識に戦慄・興奮した。
もちろん、今もそのように思っている。
読み直す」PART3で、呉座勇一氏が書評してくれた。
「佐藤氏はありふれた領主制研究者から‘問題意識過剰
な‘民衆史研究者へと変貌を遂げたのである」(p23)
「領主制の諸段階」の図式理解(地頭⇒悪党⇒国人・
国人一揆)と、民衆運動論(農民闘争と国人一揆の
対抗関係)とが矛盾しつつも混在する佐藤内乱史論
を的確に整理したうえで、その画期を謎解きして
<矢野荘モデル=十三日講事件>を発見していく。
「佐藤の研究視角は、矢野荘に関する実証研究を
通じて育まれたものであり、鈴木良一と松本新八郎
の議論に感化されて生まれたものでは決してない。
実際、鎌倉末期~南北朝期の矢野荘に関する佐藤氏の
理解は、現在の研究段階から見ても大筋では間違って
おらず、当時の史料環境を考えると驚異的な精度である」
(p26)
同感の至りである。
それだけに、藤木久志氏が矢野荘で投げかけた
佐藤モデルへの全面批判に対して、悪党論・内乱論
研究者はもう少し真剣に取り組むべきではないかー
http://wakayamau.blog116.fc2.com/blog-entry-370.html
ということを悪党研究会主催の佐藤和彦氏追悼シンポ
で強く提案した。田村憲美氏がそれに応える報告を
寄せてくださり、ごく最近活字になった(岩田書院
『中世荘園の基層』)。これを手がかりとして議論を
深めることが、私の世代の『南北朝内乱史論』再生
になるように思う。
呉座氏の指摘には、室町期荘園制論への架け橋
としての<矢野荘モデル>の意義など、傾聴すべき
点が多々あった。
「中世民衆の行動様式や、その行動を規定する心性を
探る研究が多く見られたが、これらの淵源は佐藤氏の
研究に求めることができよう」(p19)
呉座氏は、人民闘争史から社会史へのボンドとして
佐藤氏の研究を評価している。冷静に考えるなら
その通りかもしれない。だがこの時期に自己形成
していた私は、違った。敢えて深い断絶を見出して、
「佐藤氏が百姓申状の中に中世民衆の闘いを発見した
のに対し、入間田氏は起請文の側に中世民衆を見た
歴史家だった」などと強調して、後者の社会史の中に
自分を位置付ける、というスタンスを採り続けていた。
(坂田聡氏はじめ同様の同志が多かった、と思う)
もうひとつ、国人一揆・惣国研究者としての呉座氏
は、
「<国人一揆=農民弾圧組織>説は一揆契状の解釈に
難があり、現在では成り立たないという評価が確定
している」(p20)
「冒険的な史料解釈」(p23)「実証面での弱点」
(p26)と退けている。佐藤氏自身もそのような発言を
したことがあるが、そうだろうか。高幡不動胎内文書
が発見された折、私は佐藤氏に強く求めて、『内乱史
研究』14号に「国人一揆再論を寄稿していただいた。
1993年のころだった。(のち同氏著『中世社会思想史
の試み』校倉2000年再録)。その編集後記には、
「精緻な実証と理論との緊張関係によって、20年以前に
人返し機能を本質とする東国国人一揆の実在を予言して
いた佐藤氏。木村・佐藤論文を乞うたのは、課題への
思い入れと方法的模索の大切さを会員とわかちあいたい
ためである」と書いた。史的唯物論の「勝利」を確信
し、過剰な問題意識に戦慄・興奮した。
もちろん、今もそのように思っている。
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